反証可能性としての建築│岡崎乾二郎

論理的であるとはいかなることか。 例えば「人間は死ぬ 草は死ぬ ゆえに人間は草である」という論理の誤謬は、死ぬものがすべて草であるとは限らない、と思い起こせば、すぐに了解できる。すなわち「死ぬもの」という集合は草や人間という集合よりも大きい。大きいものの中に小さいものを入れることができるが、小さいものの中に大きいものを入れることはできない。そして大小は空間的な概念のように見えるが、実は時間的な順序を含んでいる。50キロの金塊から30キロの金塊を作り出すことは容易だが、30キロの金塊から50キロの金塊を作り出すことはできない。

おおよそ美術、音楽、文学、建築、映画というジャンルの違いを超えて、芸術作品の形式は、こうして論理を論理として成立させるための条件、順序構造(ORDER)なしに成立することはあり得ない。例えば作品を──例えば音楽作品を──形式的に考察しようとしたとき、陥りやすいのは、当の音楽を音楽として成立させているはずのもの=時間という不可逆性を当の形式から外してしまうという過ちである。なぜ実際に、その順序で、その時間を掛けて、演奏しなければならないのか。いわゆる「形式的考察」は、こうした作品が存立するための条件である、存在論的な差異を同一性に還元してしまう。捉え損ねるのは、その曲が、演奏として現実的な空間に現象していく過程そのもの、としての順序構造だったといわなければならない(美術、建築における、いわゆる古典主義は、この不可逆性を消去しようとして、かえって自身を存立させる論理を失い、死んだ形式=形骸=キッチュへと転落した)。

例えば、「トイレは部屋である。台所は部屋である。ゆえにトイレは台所である」という論理があるとしよう。現代の建築事情を見る限り、これは可能だと見なされているかもしれない。例えば部屋だけが現実的に実在するのであって、「トイレ」や「台所」という属性は事後的な使用によって規定されるに過ぎないという見解である。これを先ほどの誤謬論理に当てはめると、「草」であるか「人間」であるかは事後的な問題であって、存在するのは「死」だけだということになる。「死」において、確かに「人間」は「草」にも変貌するだろう。
しかし「トイレ」でも「台所」でもない、いかなる属性も持たない「部屋」は「部屋」といえるのかという問いが残る。この問いは、「もともと草でも人間でもなく、動物でも植物でもない、ただの『死』というものはそもそも存在し得るのか」、という問いと再び同型である。そして、もちろん、いかなる属性も持たない「部屋」を作り出すことは、論理的正当性を持ち得ないばかりか、作ることもできない。なぜなら、実際は、「部屋」の属性が「トイレ」や「台所」なのではなく、「トイレ」や「台所」の属性が「部屋」(空間)だからである。(いわば部屋=空間という抽象物は、建築の「死」において、はじめて現れる)。

反対に建築の秩序(順序構造)が、生きた現象としての秩序、すなわち現実的な使用の場面で現れる属性に依拠するのだとすれば、建築は、ことごとく世俗的な論理的制約、秩序を体現するものにすぎない。その意味で建築は法そのものである。建築はまず、われわれの生を仕切る、明示された、あるいは暗黙のこうした様々なレベルの法に向き合い、それらの齟齬や行き違いを調整し、その裁決を、物理的な秩序=法として自立させる。そして法の本質が、それを制定した人物ですら、その法に従わなければならない(自ら決めた法によって裁かれ処刑される)ことにあったように、建築はそれ自体が主体(主人)となって住み手、使い手の気まぐれに抵抗し、それを統治する規範と化す。それが嫌であれば、なぜ建築を作らなければならなかったのか?(なぜ芸術作品は作られなければならないのか)?

いかなる主体の恣意にも抵抗するモノ=ORDER。カール・ポパーは、真に論理的有効な言明はそれを覆す反証可能性を示し、かつ含んでいるとした。たとえば「雨が降るか降らないかどちらかだ」という言明に反証可能性はなく(降っても降らなくても成立する)正当な科学的メッセージ足りえない。だから「何にでも使える多目的な空間」も、同じく正当な科学的メッセージ足りえない。それらは単に美学的言明にすぎない。つまり恣意的思い込みにすぎない。ポパーによれば、それを固定しようとすることこそが全体主義的権力の本質である。
対して「雨が降る」という言明は同時に、「雨が降らない」可能性(反証可能性)を示し、かつ含んでいることで科学的に有効なメッセージたりうる。
つまり建築とよばれるORDERにおいても、それは思い込み(誤謬論理)の固定であってはならない。たとえば建築に屋根があるのは、ただ雨が降るのをよけるためではない。むしろ雨が降っているときに雨が止む可能性を、雨が降っていないときに雨が降る可能性を示すためにこそある。つまるところ建築という存在の正当性は〈いま、ここ〉での判断基準を超える別の判断基準(反証可能性)がありうることを確保すること、すなわち空間、時間という人間的(世俗的)枠を超越することにだけに賭けられている。そうである限り、人のいた空間、時間が消えても(物質的に人が消えても)、人間とよばれなければならないものが残る希望=可能性を残すのである。そこではじめて建築は、人間の倫理そのものを体現するものとなる。

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参考文献:http://fralippo.eris.aisnet.jp/module/short.cgi?cate=Archive&no=OKK080415_order