景観デザインについて│岡崎乾二郎

理想郷という言葉があるけれど、風景といわれるものは、人にとって、いつもイデアルなものである。一言でいって、風景とは主観が(自らの保持のために)要請する(自らを位置づけるはず)環境の相である。自らが生まれ、立ち、そこに帰るべき環境──すなわち風景にはつねに主観の影が射している。主観は、けれど反対に風景によってこそ自らが支えられている、と自覚する。
いうまでもなく現実には、自然は、常にこうした人の思いを超え、過酷、熾烈に変化しつづける。自然に循環を感じたり、不変の相を見いだすのは、それが風景として見られていることの証である。物質的にみれば懐かしい自然など、どこにもない。にもかかわらず(ゆえに)風景は(物質的には存在しないゆえ)懐かしく感じる。非在郷(ユートピア)である。

まともに考えれば景観のデザインは、物質的(物理的)には到底不可能である。自然の変化は、固定することはおろか、まるで予測することもできない。
だが、こうした不定形の自然に向かい(あるいはその中で)言葉を発することはできる。そんな言葉の端々、その連なりそれ自体を自然の中に址として残すことも。自然に対し、それを読む、いわば自然を語る文字のような仕掛けを自然の中へ仮構する。この手がかり=文字組によって、自然はそれが組み立てられる土台、あるいは背景のページ、行間のように読み取られうる。(古来、庭を作ることは、詩を編むことと同等の行為であった)。自然は、こうした仮構の中でひとつの物語(自らが生まれ、立ち、帰るべき)として読まれうるものになる。景観をデザインする──、それは景観そのものではなく、人知を超えた自然に対する、人の態度、精神的構制こそを組み立てるものであった。

しかし当然ながら、景観デザインは、こうした一方的な人間側の態度を組み立てることで終わってはならない。自然が自然として生成させる時間を、われわれ人間がひとつの循環へ閉じ込めようと語りかけるとき、対話相手である自然は、われわれの予測を必ず裏切ることで、対話の困難を知らしめ、あるいはわれわれの期待をはるかに先読みし、予期もしなかった恩寵を与え、いずれにせよ生きる(生命)ということの奇跡をわれわれに知らしめるだろう。
景観デザインという仕事はこのように、われわれの精神の境界─限界を(理想的かつ偽装的=イロニカルに)描きだしつつ、そして、それを乗り越える(理想の閉鎖性を越境する)チャンスを与えてこそ、意義をもつ。その意味で景観デザインほど、非物質的かつ脱形而上学的なものはない。それはソクラテス的な実践である。