Other Works

岡崎の作家活動は当初からその多面性を見せている。絵画や彫刻の他に主な活動を列挙するなら、1981年の「子供空想美術館」に始まり、例えば映画「回想のヴィトゲンシュタイン」、1992年のユニット「バルバスプランツ」によるコンピューター作品「Random Accident Memory」、1994年から続けられている広島県の中山間地での灰塚アースワークプロジェクトでの様々な活動、建築の設計。そして著作『ルネサンス 経験の条件』を代表とする批評テクスト等がある。

これら活動を統一的に理解することは困難である。だがこの困難は、まさに岡崎の著作で扱われた、特定のジャンルへの位置付けが不可能な、ブルネレスキの作品群を前にしたときの困難に例えることができるかもしれない。とりわけそのなかでも印象的な「グラッソ物語」の、トリックによって アイデンティティーが徹底的に奪われるがゆえに明らかにされる自我の構造を想い起こさせる。

例えば通常、映画では、実際には非同期的で不連続な一コマ一コマが、時間軸に沿って縫合され、強制的に同期させられるというメカニズムが作動している。だがそれに対して、岡崎の映像作品ではこの機制が再び非同期性に差し戻され、ショットの連結原理が問い直されることによって新たなイメージ形成が行われる。グラッソが最終的に把握する主体の同一性と同様、こうしたイメージ形成の原理において、作品が単一のメディア、メディウムに帰することは決してありえないだろう。つまり作品は既存の時空には位置づけられないような場所に確保されるのである。

それゆえ、岡崎の批評を作品の例証に用いる試みにも限界があるだろう。あくまでも重要なのは作品なのだ。様々なメディウムの干渉面をインターフェイスにすることで成立する、多種多様な岡崎の作品では、諸ジャンルの弁別ではなく、それらの弁別が可能になる点を端末として定位することがいつでも問われている。こうして、制作行為と等しい権利を与えられた鑑賞行為において、自明視された時空間の通念は問い直され、様々な時空間が絶え間なく発生するような経験に差し戻されていく。それはきわめて「アレゴリー」的な経験ともいえるだろう。

扱われるメディウムの多様性は、他方では世俗の現実に溢れる夥しい差異や諸矛盾と直面することをも意味するだろう。しかし、こうした現実上の差異すなわち外的な標としてまったく定位することができないような、本質的な差異というものがある。たとえば概念上同一であっても重ね合わせることができない右手と左手の差異。カントが既存の時空には位置づけられないと言った「左手性」は、岡崎の著作のキーワードでもあった。むしろ時空こそが「左手性」によってこそ発生する。現実的な諸矛盾を超えて、この「左手性」を確保することこそが、岡崎の多面的にみえる活動における「経験の条件」なのである。

Text : 石岡良治