Sculpture

1990年代に入ってから、岡崎の立体作品には量塊性を備えた彫刻作品が現れる。レリーフコンストラクションにおいて、幾何学的な面と面が作りだす間隙が空間形成の重要な要素であったとするなら、木、石膏、粘土、セラミック、ブロンズといった素材が用いられる90年代以降の展開では、この2次元面の間隙が3次元的なヴォリュームによって充填された連続量として捉えられるようになったと言うこともできよう。

だがこの展開は、作品の構造上はまったくの反転を示している。たとえば90年以降の岡崎の彫刻作品においてもまた、かってのレリ-フの特徴をなす、半ば有機的な形態を持つ平面が顔を見せている。しかしレリーフにおいて視線を切断するように壁に平行していた、その面は、文字通り壁を代行し視覚を組織する基底面としても働いていた。シェイプドキャンバスとの関連も指摘されるその形姿こそが、作品を統合する決定的なイメージだったのである。他方90年代の彫刻では、この面-形姿の出現は、物理的に連続するヴォリュームが唐突に切断された結果出来上がったように見える。一般に彫刻の伝統的規範において、彫刻全体を統合する形姿は、連続量が切断された結果出来上がるシルエットとして処理されてきた。このことは、量塊として全体量が予め与えられていたように思える彫刻においても、その量塊の単一性が、実際には切りだされた断面によってのみ意識されていたことを意味している。岡崎はこうした彫刻の伝統をふまえ、それをさらに反転させる。つまり問われているのは「切断によってしか形態を把握されえない」がゆえに徹頭徹尾不可視でしかありえない、ヴォリュームという不定形な連続量である。これは例えば石塊のようなリジットな量塊とは異なるが、ゲーテが述べたように、堅い岩石も本来は流体かつ不定形であったし、また人体の形姿は、内蔵、骨格、皮膚等の複数のヴォリューム間に働く均衡であるが、その様々な変化を通して単一の連続体が保持されている。形態は、こうした諸力の干渉面としてみなすことができ、彫刻の形態もまたしかりである。

つきたてのやわらかい餅を包丁で切り分けるかのような岡崎の操作は、実際には極めて抽象的でもある。予め決定されるのは、連続量に対する介入の方法及び切断の形状であり、こうして複数定められた非実体的な介入面の間には、次々とヴォリュームが充填されていく。一つの量塊を分割し得た部分を再び集めても元の一つの全体しか得られないが、この方法で生成された塊は、そのつど異なる全体を形成しうる。それは切断面というよりは、複数の断片が接合される干渉面、インターフェ-スなのだ。岡崎自身が言うように、これは地球上の諸大陸が分裂しては新たな大陸を生成させるプレートテクトニクス理論に例えうる。移動する複数のプレートが作りだす複数の地球面は、版画における版の応用性とも類比可能であり、この方法は岡崎の絵画とも連動している。浮世絵に典型的だが、一つの版画を作るために分解された複数の版は、そのまま他の画面に転用することで複数の画面を形成しうる。ヴォリュームはこうした複数の断片相互の乖離と移動、その重層決定を可能にする不可視で流動的な領域としてのみ感知される。

量塊を逃れるヴォリュームを、ミケランジェロもまた水槽という量塊ないしは牢獄から溢れ出す水として捉えている。理性の統御を離れてバラバラに運動する筋肉や、重力でだらしなくたわむ脂肪。肉という牢獄が喚起させる精神性は、物質的な諸力に身を晒し、衰え崩壊していく肉体の姿にこそ託される。しかしすべてを溶解させ連続させていく崩壊は、同時に極めて官能的なものでもあり、この官能性はつねにエントロピー、死と隣り合っている。ヴォリュームという官能的な経験において、見えないものまで連続させてしまう想像力は物理的な必然と一致する。岡崎の彫刻はこの官能性を、抽象的なメカニズムにおいて把捉しようとしているのである。

Text : 石岡良治