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Kenjiro Okazaki

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連続講演会「「近代」と対話する。」第5回| 反復する世界大戦と抽象

6 December, 2019

連続講演会「「近代」と対話する。」第5回| 反復する世界大戦と抽象

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館のリニューアル・オープン記念展
「ふたたびの「近代」」に関連する連続講演会に、以下のテーマで登壇します。

反復する世界大戦と抽象
講師:岡﨑乾二郎

■日時:2019年12月14日(土)13:30−15:30
■会場:鎌倉商工会議所会館 地下ホール
鎌倉市御成町17-29[鎌倉駅西口より徒歩5分]
■定員:先着120名[要申込]
■受講料:各回1,000円[任意の回数で申込み可能]

【申込方法】
下記いずれかの方法にてお申込みください。
[1]「「近代」と対話する。」申込みフォームより申込
[2]下記リンクのPDF裏面に必要事項を記入し、
FAX送信または鎌倉別館、葉山館受付(開館時間中のみ)へ提出
「「近代」と対話する。」チラシ兼申込み用紙[PDF]
Fax:046-875-2574(神奈川県立近代美術館 管理課)

>> 詳細

Works

Writings

  • 「あふるるもの」(中谷芙二子について)

    https://kagakuukan.org/

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Writings

中谷芙二子の仕事に一貫しているもの。それは「メディウム」への帰依である。ひらたく言いかえよう。芙二子の仕事からはいつも、メディウムのもつ能力=可能性が惜しみなく溢れ出している。それは作家という枠も作品という枠も超え、表現ジャンルという規定をも超出していく。その溢れ出す能力こそ、そもそもメディウムに内在された力である。
 よく知られたモダニスム芸術のまちがった定義で前提とされたメディウム[*1]とは異なって、メディウムとは、いかなる形式による規定をも溢出する物質的状態=振る舞いこそをその特質とする。「自由」という概念はこのメディウムの振る舞いによってこそはじめて可能になると考えられなければならない。したがって中谷芙二子の仕事に見出せるメディウムへの帰依とは、表現形式として措定される芸術作品(決定論的な自己撞着=規定されたもの、同じものの反復に陥るしかない)とは本質的に背反する。そこにあるのはいかなる規定からも溢れ出し、超出する力、世界にいまだ「自由」(そしてわれわれに「自由意志」)があることを確信させてくれる、絶対的条件としてのメディウムの振る舞いである[*2]。

I
プライマリーなメディウムの条件
I ‒ 1
たとえば「ある科学者がxを発見した」という文が言われるとき、そこで彼が発見しえたのは何だろうか。その「発見」あるいはその「発見されたx」という存在は、発見した科学者に帰属するだろうか?(つまり科学者がそれを発見したときまで、それは存在しなかっただろうか)? もちろん常識的には、そのように理解されることはない。
 が、この「発見」という語が「制作」という語に置き換えられ、「ある芸術家はxを制作した」と言われたならば、もちろん、そのxを作ったのは芸術家だ(つまり、それは芸術家が制作したことによって存在することになった)と無条件で考えられてしまうだろう。[*3]
 たとえばアルキメデスが「ユーレカ」と叫んだとき、彼は何を発見したのか。彼は風呂に入り、実際に発見したのは「水が溢れる」という、見慣れていたはずの現象だった。ある容器いっぱいに満たされた水に何かが投げ込まれたときにもいつも起こっていることだ。アルキメデスが実際に知覚したのはこの溢れる水だけだった。それは発見といえるだろうか? 正確にいえばアルキメデスはそのとき水が「溢れる」という出来事を改めて見出した=再発見したのである。(だから「アルキメデスが浮力を発見した」というのは正しくない。水が溢れなければ浮力という概念(存在)を思いつくこともなかっただろう。いや水やアルキメデスという概念すら自覚されなかっただろう。浮力の本質とは空間を占拠する力である。水であれアルキメデスの身体であれ風呂桶であれ、同じく、空間を排他的に占有する権利を有し、その権利において互いに反撥しあっている。水は流体であるから、反撥の力を真っ先に受けて押し除けられやすく、また隙間があれば真っ先に侵入する。溢れているのはこの力である)。
 アルキメデスが直接、知覚したのは「水が溢れる」という現象である。その「溢れ」からアルキメデスは間接的に改めて水を発見し、自身の身体を発見し、風呂桶を発見し、それらの大きさ、量を発見した。この例に示されているように、人間の知覚は対象を直接捉えてはいない。反対に人間の感覚器官は対象と距たりをもつこと、対象と間接的にしか関係できないという事実によってしか機能しない。たとえば対象との距離がなければ視覚は機能しない。われわれが捉える色とは対象の表面に当たった光が、その物質に一部吸収され、あるいは分散的に反射し分光することで作り出される揺らぎ(射角のずれ、遅れ)である。つまり対象と視覚の間の距たりゆえにおこる現象─その中間に存在する何ものか(事物の表面、中間に存在する空気の湿度、浮遊物などなど)が引き起こす光の歪曲、乱反射こそを、われわれの目は見ているのである。対象そのものを見ているのではない。耳が音を聞くのも同様である。そもそも耳と音源との間に隔たりがあり、そこに何かがなければ音の波は起こらないだろう。

Exhibitions

「泥とジェリー」21 January–6 April, 2014│東京国立近代美術館│東京

Curation

「抽象の力」

Profile

造形作家。武蔵野美術大学客員教授。 1955年東京生まれ。1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、数多くの国際展に出品。総合地域づくりプロジェクト「灰塚アースワーク・プロジェクト」の企画制作、「なかつくに公園」(広島県庄原市)等のランドスケープデザイン、「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど、つねに先鋭的な芸術活動を展開してきた。東京都現代美術館(2009~2010年)における特集展示では、1980年代の立体作品から最新の絵画まで俯瞰。2014年のBankART1929「かたちの発語展」では、彫刻やタイルを中心に最新作を発表した。長年教育活動にも取り組んでおり、芸術の学校である四谷アート・ステュディウム(2002~2014年)を創設、ディレクターを務めた。2017年には豊田市美術館にて開催された『抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜』展の企画制作を行った。 主著に『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房 2018年)、『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋 2014年)、『芸術の設計―見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社 2007年)。『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(絵本、谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス 2004年)。 『抽象の力 近代芸術の解析』にて、平成30年度(第69回)芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。

Publication

『ルネサンス経験の条件』

Public collection

「あかさかみつけ 5」1987-1989

Lecture

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