野は緑、小鳥が歌い、露が輝き、煙がたち昇り、そこここに見えるのはみな「だれか」だった。光のなかで姿を現し姿を変える、心を打つものすべてはきっと「だれか」の所為。もし植物たちが感情を持たなかったら、地上を充たしている感覚も乏しく疎らとなるだろう。花の回りを飛び交う昆虫のかたちをした、心もきっと孤独のはず。森のなかを駈ける獣たちの目にも耳にも何一つ触れるものがない。けれど水たまりの前で、獣がにわかに渇きを覚えるとき、その渇きこそ「だれか」である。ハシバミの枝々は動き、日は西に沈む。潮かぜ海かぜ、何を求めてさまよい歩く。さざなみが大海原に生じ、葉が木に生えるように、ぼくらは世界に生れた。さざなみは光を各々、別の斜面において捉え、煌めき、枝が動かずとも木の葉は戦ぐ(耳や目をそばだて)。それは目にも耳にも手にもまるで別の事件として生じる。然るに意識が世界を掴むとき体は引き潮のように背景に退く。わたしは言う(だから耳目に頼らず)起きなさい。